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エレクトタイムス22 CD「棄脱の天地」ライナー・ノーツ

真の前衛とは、絵の具をぶちまけて絵を描き、後から意味付けなり、タイトルを冠するものではあり得ない。前もって、テーマを決めておき、後から絵の具をぶちまけるならまだしも、表現すべき内容、表現の方法に、独自の発想なり、目新しさがあるからこそ前衛と呼ぶのであり、偶然性に依存した表現行為など、責任の伴わぬ自由の如き、子供だましに過ぎない。

そして、エンターテイメントの目指す所は、如何に大多数のリスナーの要求に答え得るか、如何に多くの観客を楽しませ、満足させ得るかにある。よって、前例に逆らう事はタブーである。過去に、大多数からの高い評価を得たモノに、更なる改良を加える事はあっても、その成果に対し反旗を翻(ひるがえ)す事は有り得ない。

しかし、自己表現の目指す所は、自らのこころの内を、如何に歪曲せず、誤解無く伝え得るかと言う点にあるのであり、そのために過去に用いられた表現方法を一部引用する事はあっても、その本質は借り物では到底まかないきれない。表現せんとする自己の本質部分が深くなればなるほど、自ずとその表現形態も独自性を帯びて来るのは当然の成り行きである。

浅い自己表現の場合は、個人の表面的な趣味や嗜好が反映されるゆえ、その音楽性も、パンクやレゲエ等、既に存在する形態を伴う場合が殆どであり、表面的な共感は得やすい。しかし、これらは、単に自己紹介と呼ぶべきレベルに過ぎない。

誰もが、真に自己の本質を探求し、突き詰め、掘り下げて行くならば、人類の数だけ表現形態は存在するはずである。よって、ある意味、自己表現を極限まで追求すると言う事は、元来の目的であり、理想として掲げた、唯一無二の独自性を獲得し得ると共に、他人が共感し得る部分を徹底的に排除して行く危険性をも孕んでいる。

他人に、自己の真の姿を伝えると言う事は、誰もが独自(オリジナル)であり、誰もが独自(ひとり)であると言う事を、いやと言う程見せつける行為である。だから、この世に独りしか存在せぬ自分に価値を見出せない者、真の自分を見つめようとしない人間は畏怖するか、その孤独感に耐えられぬゆえ、目をそらすか、やみくもに否定するのみであろう。自己を直視しない人間は、物事さえも表面的にしか見る事が出来ないのだ。そして、人は皆、誰もが独自である、と言う事実にも共感出来る者は少ない。

木幡東介。今まで、日本語を大事にした“うた”を歌ってきた。しかし、それは何も、日本人である事に殊更こだわった結果では無い。自分にこだわるならば、日本人である事は大前提、日本語を用いる事は必然。更に言うならば、理解よりも先に、誤解を生み易い“言葉”というモノ、その言葉の持つ意味合いは、本来の発音やアクセントを殺しては、通ぢるものも通ぢない。「痛い」と言う言葉を発する時、本当に「痛い」思いをした時の感情を伴って口に出さなければ、見ず知らずの他人には伝わらない。また、その逆に、如何に饒舌に言語を駆使しようとも、その本音や真意を伝えきる事は、決してたやすくは無い。

木幡のうた、そして音楽にも言える事だが、そこには表面的な歌詞や言葉の意味を超えた、本質的な“こころの振動”が伴う。うたならば、その力強いメロディと、唄声の繊細なる震えによって。たとえ、歌詞で唄われている、具体的な内容に共感を覚えずとも、その“こころの振動”に対し、過去に同様な思いをした経験があるものならば感ぢずにはおれない共感。否、共鳴。“こころの振動”すなわち、熱き血潮漲(みなぎ)る、生命の奔流に対する、本質的な共感。

人は歳を重ねる毎に鈍感になる。何かが起こる度、いちいち泣いたり、驚いたりしていては社会生活を営めないゆえに。そんな、人のこころの奥深くの、“ある部分”。感情をつかざどる“その部分”。木幡のうたは、そこに届く。その部分を、ストレートに直撃する。感情をコントロールするその部分をグラグラと揺さぶる。まるで赤子が泣き叫ぶかの如く、嘘や偽り、邪心や邪念など、そこには微塵も存在しない。あまりにも無垢なる衝動の発露。どこまでも純粋であろうとする、この、けがれなき魂の咆哮を、死の淵に咲く生命への讃歌を、美しいと言わずして、一体何と表現すれば良いのか。

また、木幡のうたは、その真剣さゆえに、聴き手にも本気で向き合う事を要求してやまない。だからこそ、他人に対し本気で向き合う事の出来る、まともな人間ならば、自ずと、こころを揺さぶられずにはいられない。そして、そんな、“こころの揺らぎ”を楽しめる人間にとっては、これ以上の快楽、これ以上の娯楽は無い。そもそも、真の感動とは、“こころが揺らぐ”事を指すのであり、表面的な肉体の快感を得る事でも無ければ、人生や生活を脅かしはしない程度の嗜(たしな)みなどでは、決して得られるはずは無いのである。

自己表現におけるクオリティとは、リアリティの度合いに他ならない。あるいは、それを“本気”度と言い換えても良い。

この文章を、“こころの揺らぎ”を楽しめる、真に勇気ある人々へ捧ぐ・・・。

2004年1月4日/Mr.エレクト(エレクトレコード代表)


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