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エレクトタイムス12 1996.12.23

スポットライトの当たる華やかな世界ではなく、薄暗く狭い(失礼)地下のライヴハウスに、とてつもなく明るく力強く、情念と躍動感溢れた、まごうかたなき唯一無二の真実を見た。この、ヤラセ八百長やらずぼったくりの世の中にあって彼らの存在は正に奇跡である。彼ら、そう「マリア観音」。この日、1996年12月4日下北沢シェルターにおいて、彼らを初めて観た者はおそらく、かのビートルズを当時初めてラジオあるいはTVもしくはレコードを見聴きした時の様なショックを受けたのではなかろうか。ビートルズの登場は、パンクの登場など比ぶるまでもなく、常に新しいもの、パワーあるものの誕生は時として世間の徹底的な迫害と、しかし圧倒的な熱狂をもって迎えられる。それが真に邪道で無ければの話だが・・・。とかくこの世は正統派がないがしろにされがちな様に、音楽の世界、特にロックにおいては、しっかりした基礎の上に成り立つ斬新かつエモーショナルな表現があまりにも少なすぎる。(いずれかが欠けても無意味なのだ)演り初めは誰しも下手に決まっている。だが下手であれ何であれ演りたい事がなく、演りたい気持ちが希薄であるというのは実に頂けない。初めは下手でも真似でもめちゃくちゃでも良いから衝動なりパワー、そして情熱を感じさせて欲しいものであるし、それを持続させつつ技術の向上オリジナリティの獲得を目指すのは人間が自我に目覚め自己を確立していくのと同様、本来ならば至極当然の成り行きではないのか。しかしそういったミュージシャンやアーチストが日本には少ないという事は進化論に例えるなら、まさしく日本のロックは洋楽という名の継母から乳離れ出来ぬ赤子ならぬマザコンであり、原始人ならぬサル(マネ)であるとでも言ったところか。演り初めは誰もがパワフルかつ情熱的であるべきなのにそれさえも少ない上に、そのパワーとパッションを持続させるとなるとこれにはかなりの強固な意志と、それを持続出来るタフネスさが必要である。この日のライヴにおける「マリア観音」にはそういった事を考えさせずにはいられないパワフルさとタフネスさ、ポジティブなエナジイの放出、そして一種、原始時代の司祭、あるいは密教の秘儀を行う教祖を思わせる「木幡東介」のカリスマ性を改めて認識させるものがあった。しかし、何と言ってもこの日の共演がハードコア・パンク勢という事もあり、「マリア観音」結成間もない頃、すなわちパンク系のバンドとの共演が多かった下北沢屋根裏etcにおける初期の彼らを私に思い起こさせ、今にして思えば、オリジナル・メンバーである「平野勇(Ds)」のドラミングも、パワフルではあったがテクニカルとは到底言えないものであったし、木幡にせよ歌唱力、表現力共に現在のレベルには遠く及ばぬ有様ではあった。※新作「髑髏」における彼の歌は、バンドとしての前々作「義眼」における歌唱に更にバンドの演奏をプラスしてなお余りある程のテンションの高さ、激しさ、確かなる技術に支えられた表現力をその歌唱のみで成立させている。本作はその歌に平野、そして「小森雅文(Key)」、更に木幡本人の演奏を上乗せするのだから、その間わずかな年月における進歩の程は驚異的でさえある。現在ではこれらに更に新加入の「河崎純(B)」の自由奔放にして攻撃的な演奏が加算され次回作は如何なる大作になるのか今から待ち遠しい限りである(宣伝オワリ)。要するに少なくとも木幡においては、当時技術不足ゆえに表現したくとも表現しきれぬ形にならぬ怒りや衝動をありのままさらけ出しぶつけんとするその全身全霊全力投球の姿勢と方向性はその頃から何ら変わって、否、日和っていないという事の再確認と、更にはそのパワーを衰えさせる事なくしかも表現力の幅、技術力の進歩と向上により、そのパワーを目減りさせる事なく2倍3倍にも増幅する事を成し得たそのタフネスさはただ単に「音楽が好き」という単純な言葉では括れない執念とプライドを感じさせる。その点についてはいずれ述べるが、更に何と言ってもこの日の目玉は、事情により平野の代わりに、「PILL・勝井・木幡ユニット」でもおなじみのハードコア・ドラマー、「PILL」が急遽ヘルパーとしてドラマーを務めたという点であり、前日の決定、曲を全く知らぬではないとは言え、前出のユニットと違い、リハーサルを重ね完成品を提示する「マリア観音」として楽曲を成立させる事が出来るのかという一抹の不安も無きにしもあらずであったが、そんな事は取り越し苦労どころか、この日のライヴは今後の彼らのあり方を予期させる意義あるものであった。何せぶっつけ本番に近いゆえ、要はどう叩いても自由、しかし、この「自由」というやつが実は一番厄介なのだ。真に自由を愛する者は、自由が如何に難しく、しかし大事なものであるかを誰よりも知っている。自由とは水や空気の様にいつでもあるというものではない、否、水でさえ不足気味だというのに。更には自由とは与えられるものでは決してなく、自分で作るもの、奪い、勝ち取るものである。常に与えられた限られた枠の中の自由に満足させられている者には決して理解できないだろうが、そういった自由の有難さを知らぬ人間程、自由と自分勝手を勘違いして、ちょっとした瞬間の、目先の安易な快楽や刺激欲しさに真の自由を失う羽目になるのだ。話がそれたが、先日前出のユニットによる高円寺ショウボートのライブにて、ステージでダイナミックかつ常識外れ、激しく空前絶後な正にドラムと心中せんばかりのプレイを観せたPILLは、流石、自己のエゴとプロとしての自覚を両立させ、「マリア観音」のテンション、パワーを落とす事なく、彼らの無限の可能性をも垣間見せてくれた。すなわち木幡の唯一無二な詩世界にドラマチックかつエモーショナルな要素を必要とするインプロヴィゼーション、すなわちフリージャズ等に見られる即興演奏の方法論を導入せんとする目論見だ。否、すでに彼らはそれに取り組んでいる。その成果の程は私がくどくど駄文をこねるより、貴方自身のその目と耳、否、精神と肉体で判断して欲しい。


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