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エレクトタイムス16 1997.10.7

私が「マリア観音」に対し、“ロック”と言う言葉を意識的に使用しなくなって久しいが、もちろんそれには理由がある。そもそも“ロック”とはなんぞや。私はこう考える。“ロック”とは(年齢に関係なく)精神的に未成熟な者の、「俺の存在価値を認めてくれ、誰か俺を愛してくれ」と泣きわめく言わば“赤子の叫び”であり、音楽としても不完全な欠陥品である、と。だがしかし、それゆえに技術(実力)の伴わぬそれは時として強い衝動や熱い情熱に満ち溢れており、ちなみに、泣いている赤子をあやすにはその赤子の泣き声と同じ周波数の声(音)でなくてはダメだそうで、そう言えば「あばば〜」だの「お〜よちよち」等と言う時、知らず知らずかん高い声を出している人々の姿が思い起こされるが、“ロック”もやはりその理論同様、それゆえに人間としては不完全な若者の心を強く魅きつけるのである。ただし、この世に真に成熟し完成された完全なる人間等居るはずも無く、人が“ロック”を卒業(?)すなわち聴かなくなる理由の大半は、理想と現実を前にした時に、理想(そんなの元より無いか?)を追求し続けられず結局現実に負けてあきらめてしまうからであり、そんな妥協や人間性を無くす事が大人になる事だとは私は断じて思わない。それはただ単にヒトからロボット、否、機械それも人糞製造機への堕落であり、物質至上主義、資本主義社会の奴隷を自ら志願する事である。理想どころか個性のかけらも見当たらぬ正しくロボットの如き“大人”と称される一部の人種の生気の無いまるで能面の様な顔を見ればそれは一目瞭然だろう。(それは偏見である)近頃、アダルト・チルドレン(大人に成ろうとしない成人)が増殖しているとマスコミ等が煽っているが、当たり前だ。素晴らしいと尊敬でき、そう成りたいと思わせる様な立派な…とまでは言わないが大人、と言うより真に自立した人間が余りにも少な過ぎるからである。しかし、そんな世の中にあっても、わずかだが真の自立、更には機械の一部品としてでは無く一人の人間としての真の独立を目指している人々も確かに存在する。音楽の世界でそれを成そうとしているのが「マリア観音」の「木幡東介」である。忘れもしない9年前(1998年10月7日)、音楽の形態としての“ロック”に飽き飽きし、真にエモーショナルかつエキサイティングな刺激と感動を与えてくれる音楽を探し求めていた私の前に現れた彼、そして彼ら「マリア観音」は、正に私の求めていたものであり、先に定義した“ロック”そのものであった。もっともその頃は知性と言うよりは痴性の方が強かったが(失礼)、日本語の詩、それもデリカシー溢れる言葉の選び方。更には、特に木幡に顕著であった、今にして思えばテクニックどころか正直言って荒削りな、しかしながら衝動と情熱だけでは誰にも引けを取らぬ程の異様な迫力と過剰なテンションに支えられた「俺という人間がここにこうして存在しているって事を誰か認めてくれ」、否、「認めやがれこのヤロウ」と言った怨念にも似た怒りとも憎しみともつかぬパッションとエナジーは他に類を見ない程のものであり、(それは決して誰かを傷つけようとするものではなかったが)例えて言うならば、メンバーのルックスからして、私のフェイバリットであるイギーポップとストゥージズがジャックスの曲を演奏していると言った感じであった。ただし、そこにとどまって(安住して)いれば、“ロック”としては確かに極上の、最高に素晴らしいバンドとして、しかし音楽としては赤子、あるいは片輪のままで終わっていただろう。だが木幡のプライドはそれを許さなかった。“ロック”すなわち実力も無いくせに「俺を認めてくれ」と言う事はただ単に他人に対する甘えでしか無い事を悟り、真に実力で、真に音楽、真に人間(すなわち大人)として認められたいと願い、それを志してしまったのだ「…しまった」と言うのには訳がある。それは同時に自己(の甘え、葛藤)との戦いでもあり、バンド・メンバーをも含めた世間、時代や社会、更には血のつながった肉親さえをも敵にまわす戦いの始まりでもあるからである。自己との戦いに打ち勝つだけでも困難だと言うのに、それら周囲の圧力に屈せず初志を貫き理想を追求し続ける事が容易では無い事は想像に難くないだろう。そして更に彼が評価されて然るべきなのは、実力派を目指しつつ、初期の衝動や情熱、それらのパワーやテンションも下げるどころかむしろトゥーマッチに増幅させていると言う点にある。それを考えると社会からドロップ・アウトし“ロック”を演ってる事など、偉くも何とも無いどころか、単なる世捨て人、敗残者のそれである。しかし、その始まりにおいては、やはり“ロック”…と言うより、言わば“自己表現欲求”の衝動なり情熱が必要不可欠だと私は考える。しかるに見るが良い。テクニック(実力)があるとされる音楽家達の多くが、ミーハー向けのサービス業、営業ロックの連中に比べても遥かに観客(ファン)に感動を与えられない事。マニュアルが先行するあまり意識や価値や理想や主義どころか個性もクソも無い正しくロボットの如き無表情な彼らの演っているその音楽を。無論、テクニックも異常に、人の3倍もあればそれはひとつの個性となり、聴衆に感動を与える事も出来るが、中途半端なテクニックや内容の伴わぬプライド等は進歩向上の妨げになるだけであり、そんなモノが大人向けの音楽だとはまったくお笑い草だ(ロボットめ、マニュアルの奴隷共め)。そしてそれを疑いもせず有難く拝聴する、学校のお勉強は良く出来るが自己のものさし(価値観)を持たぬ(人糞製造機はお下劣だから)二酸化炭素排出機の諸君。貴方がたは、人間の一生なんて本当に短い、あっという間だって事が、明日にも、否、今日にも死んでしまうかも知れないって事が分って無いからそんな時間の無駄使いが出来るのだ(ヒマ人共め)。否、人間の、そして自分の生存意義や存在意義について思いを巡らせもしない輩にそんな事を言ったところで私自身も貴重な人生の無駄使いか…。

♪親とて群れの一人さ 友とて群れの一人さ…「絶望」。
♪花だから 媒介も子孫も要らぬ花だから 虫ケラなんぞ寄せつけぬ花だから… あぁ 類を見ない悪天候を待ちわびながら 自爆する瞬間に命を燃やす あぁ たった一度きり命を燃やす 自爆する瞬間にすべてを燃やす…「月下香」
♪此処はおまえら下界の下僕の 喉には合わない水さ 喉が焼けるような水だから 飲めないか 飲めないか 飲めないか…「刺生活」。
全作詩/木幡東介

しかし私は訴え続ける。沈黙は敗北であり死である。押付けがましいと言われようが、“大人げない”と言われようが、“時には死んだふりもする”のが大人だとは絶対に思わない。


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