エレクトタイムス18 1999.9.21
何故…。何故にロックはいかにもロックっぽく、ハードコア・パンクはいかにもハードコア・パンクっぽく、フリー・ジャズはいかにもフリー・ジャズっぽいのか。何故、そんなにお行儀が良いんだ。何故もっと冒険(あるいは挑戦)しないんだ。何故そんなに西洋人に成りたがるんだ。(結局は西洋文化の奴隷と化すだけなのに)。何故そんなに誰か(他人)に成りたがり、ブランドすなわち権威に、長いものに巻かれたがるんだ。何故もっと自分らしさを追及しないんだ。何故誰もが独りになる事を、孤独を怖れるんだ。何でどれもみんなありきたりなんだ。何処が一体面白いんだ。どうしてそんなに保守的なんだ。10余年前、私はそんな日本人(特にロック)ミュージシャンにうんざり、飽き飽き、辟易していた。不満だらけ、疑問だらけ、怒りと憤りでいっぱいだった。何で、売れたり人気が出た途端、明らかに作品のレベルが下がるのか(下げたから売れたのか)。何で、演奏力が向上すればする程、個性(とは名ばかりの、しょせんは下手さゆえの欠け具合、足りなさ加減)が失われ、普通(退屈)になってゆくのか。何でもっと思いきりありったけの力で激しくやらないんだ。何でもっと徹底的にとことんまで、才能が尽きてしぼりカスになるまで追求しないんだ。どうして自分の好きになるバンドやミュージシャンに限って、解散したり引退してしまうんだ(…これは、レーベルをやり始め、音楽活動を続けて行くにあたっての経済的困難さを目のあたりにし、痛い程に理解したが)。と、半ばあきれ、あきらめかけつつも、そんな自分を満足させ得る理想の音楽を探し求め、出逢ったのが「マリア観音」であり、未だに何ら改善どころか、もはや救いがたい絶望的とも言える我が国において、彼らだけは唯一、10年以上の永きに渡り、私を満足、感動させ続けてくれた。「マリア観音」以上に、エモーショナルにしてエキサイティング、なおかつナイーブでデリカシーのある音楽を、私はクラシック以外に知らない。しかも日本人の誇りであり財産である日本語の美しさを最大限に生かした知的かつ独創的な詩。これぞまさしく私の求め続けていたものであり、こんな素晴らしい音楽を未だ知らぬ“同志”を一刻も早く絶望の淵から救い出さんと思うあまり、つたない文章を恥ずかしげもなくこうして晒している訳なのである。しかしながら、その衝動と情熱を持続させつつ、演奏技術や表現力を向上させ続ける労力たるや、自分で創る事より、探す事(それにせよ、人一倍の情熱を傾けたつもりだが)すなわち、こうやって好き勝手な事を言える気楽なリスナーの立場を選んだ私は身をもって知る由もなく、とうてい計り知れるものではないが、レベルの低いミュージシャンを甘やかす、レベルの低いリスナー(その共犯構造こそがお互いを不幸にしていると言うのに…)にはなりたくないゆえ、更に言わせてもらうが、趣味でやっているのならばともかく、金を取って演奏を売るプロであるならば音楽を好きである事は当然だが、好きで始めるのは簡単だが、これを続けて行くとなると、結婚生活同様、様々な障害や挫折はつきものであり、三度の飯より好きだったはずの音楽を嫌いになる瞬間も一度や二度では無いはずだ。何故ならば、音楽を愛してやまないのであれば、その愛すべき音楽や生み出す作品に対し手抜きや妥協など出来ようはずも無く、遊びにせよスポーツにせよ、本気でやればやるほど、求める快楽の度合いが高くなればなるほど、得られる楽しさと同等に苦しみも増すからである(もちろん、それを苦労と感じるか否か、ゼイタクな悩みだと覚悟を決め、音楽と心中する気で腹をくくるかは人それぞれだが)また、話は少しそれるが、先の某ミュージシャンMの覚醒剤不法所持及び使用についてもコメントさせてもらうなら、無から有を生み出す創造者の苦労も知らずして偉そうな事を言うのはおこがましいし、他人を傷つけたならばともかく、クスリで自分の肉体や精神をボロボロにしてまで人を楽しませる音楽を創らんとする事を薬物使用の善悪はさておき、誰が批判する事が出来ようか。それをファンへの裏切りだと言うのなら、逆に、真のファンであるならば、ミュージシャンがスランプで曲が創れない時には、いっさい音の入って無いCDを3000円出して買い、ミュージシャンが活動を続け、引退せずとも良いよう支援してやれってもんだ。「サムライは己を知る者のために死す」。そうすれば、某ミュージシャンとてクスリに頼る甘えや弱さを振りきって、ファンを喜ばせるための新曲をいつの日か必ず披露する事であろう。とは言え、エンターテイメントと言えども、人を楽しませる事より自分がまず楽しみ、自分の為にする事で人が楽しめれば最高であると言う基本理念を忘れてはならない。そもそも、自分(観客側)より音楽が好きじゃない人間(演奏者)の音楽を誰が聴く気になどなるものか。音楽を聴くだけにとどまらず、更には演る側にまで立とうと言うのであれば、誰よりも(少なくとも観客よりも)自分は音楽が好きなのだと宣言しているのと同じなのであるからして、「どうだ、こんなに俺は音楽を好きなんだ」と威張るぐらいのつもりで我々聴衆を嫉妬させ羨望を抱かせていただきたいものだ。
ところで、「レベルが低い…」と言うと、すぐさまテクニックうんぬんを指すと誤解されがちだが、ここで指す“レベル”とは、強いて言うなら「志(こころざし)」すなわち「プライド」あるいは「プロ意識」であり、演り初めは誰しも未熟なのは当然で、それに勝る「ヤリたい」衝動や情熱のひらめきや輝きこそが美しいのであり、だからと言って、いつまでもそんな“若さ”が通用すると思ったら大間違いで、いかに多くの人を楽しませる事が出来るかと言うのがエンターテイメントの目指す所であり、偽らざる真の自分、あるいは自分らしさ、自分の伝えたい事を誤解無く伝え得るかが自己表現の真意であるが、どちらの分野においても、赤子の片言と成人の会話を比較すればその伝達能力すなわちテクニック、演奏技術と表現力が必要不可欠であるかと言う事が分かっていただけよう。よって、ロックだとかパンクだとか前衛だとか芸術だとかを言い訳に、テクニックを否定してみせる事は単なる甘えであり、それは「私は進歩する気も無い怠け者であり、表現するべき自分は極めて幼稚で単純でうすっぺらである」と言っている様なものである。更につけ加えるならば、テクニックの目指す所は、あくまでも幅広く繊細な表現力の獲得及び自己を忠実に具現、他者との差別化のために用いられるべきであり、早い話がモノマネ上手、すなわち、すでに存在する(した)誰かに似せるためにあるのでは無いと言う事だ。音楽を演る事は個人の自由だが、それで金を取ると言うのならばそれなりの資格なり基準(あるいは覚悟)があってしかるべきだと私は考える。しょせんヒトマネで終わるハンパな音楽好きとやらは、さっさとこの業界から足を洗って欲しいものだ。ジャンルやルールにとらわれない、もっとスゴいもの、今まで出逢った事も無い様な未知なる刺激や感動を音楽によって与えて欲しいと望むのは、健全な音楽ファンとしては当然の願いなのではなかろうか。
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