アンダーグラウンド音楽教室


アンダーグラウンド音楽教室 vol.1   2019/2/23 ドラム編

[口頭メトロノームによるレコーディング]

①先ず、ヴォイスパーカッション宜しく好き勝手に口頭でリズムを数分間レコーディングする。
この時決して数字で認識しない。
この段階で自分に刷り込まれているリズムの種類がわかってしまう。

②これに合わせ他のパートをオーバーダビングする。
寸分違わず合うまでやる。
自分の特徴(段々と早くなる、段々と遅くなる、前のり、後のり、特定の位置にアクセントが来る 等)を自分の肉体に刷り込んでゆく。

やる事はこれの繰り返しである。パートを増やしても良い。これだけであるが、合わせられるまでにはメトロノーム(機械)の約10倍の時間がかかるが、これが紛う事無き自分の独自のリズムである。とにかく自分の肉体に自分のリズムを刷り込み続ける。
これを私は(これによって再現可能になる)本能の制度化と呼んでいる。
巷の音楽教育ではタブーである、リズムが不安定、弱い、走る、もたる 等は、この制度化によって全て個性になり武器になる。

[他人のリズムも刷り込む]

③(例)初代高橋竹山、五代目古今亭志ん生、春風亭柳昇、タブラ(インド)、ガムラン(インドネシア)、パンソリ(韓国)、浪曲、雅楽、各種民族音楽、生録(波、渓流、鳥、鯨、蒸気機関車 etc)、富樫雅彦、吉沢元治、エルビンジョーンズ、サニーマレイ、ミルフォードグレイブス etc、(全て回転数を最遅にする。33回転以下)これらをベーシックトラックにしてレコーディングする。この時メトロノーム的刷り込みの強いアーチストは避ける。キチンとレコーディングして確認する。

先にも書いたがこれらには時間がかかる。一音一音気が抜けないからである。しかも美術のデッサンの初期段階での、焦点をぼかして対象を見る(聴く)ことも同時にしなければならない。加えて色々な風景を想い描いたり、感情を込められれば尚良い。

リズム、メロディは別々のモノではない。メロディにも鼓動があり、リズムにも色彩がある。
野生動物(自然)とは一個体一個体が本来トータルなものである。リズム係もいなければメロディ係、指揮係もいない。襲撃だけを刷り込まれた自然界では自活出来ないドーベルマンと、狼は違う。
(我が家の甲斐犬は半野生と言ったところか?)

おそらく芸術文化とは、社会動物である人間が、分業体制の生命活動の中でも、有事のために必要とされる個の野生というものを失わずにおくためのものであると考える事もできる。

音楽に関して言えば、メトロノームという檻、西洋音階という檻の中で成されたどの様な高度な技術も、所詮 籠の中の鳥、生け簀の錦鯉、牙を抜かれ安定剤を注射されたサーカスの猛獣の如き哀れな家畜である。
誤解無い様言っておくが、毎夜巷で行われているロックという名の幼児プレイは、メトロノーム以下である事を付け加えておく。

何度も言うが、10倍の時間がかかる。しかし本来、一致、融合とはそうしたものである。
夫婦、親子、チーム、共同作業、動物飼育 等、また然り・・・。
メトロノーム(社会通念)によって短時間に一致させた関係は、交換が効くが間もなく内的な質に於いて破綻する。直ぐに上限が来るからである。(1つの解答を覚えたら終わり・・・。)
真の融合は、野生同志の間でしか成立し得ない。

その様な野生の理性を持った動物の社会。
これを私は仮に、東夷偽史先住民部落(アンダーグラウンド)と名付けよう。
極東の偽りの歴史を刷り込まれた、自分の真のルーツを己の肉体の内に探求する事を目的とした人の集まりという意味である。

自分はいったいどこから来てどこに行くのか、本来或るべき自分とは

目下のところ住人は私一人である。

木幡東介(マリア観音)



アンダーグラウンド音楽教室 vol.2   2019/4/27

自己の支配者は自分であるが、自己の奴隷も自分である。
これが他者という生贄を必要としない一人国家である。
分業が進めば進む程、人は冷酷になる。
他者の気持ちがどんどん解らなくなる。

[踊りの結果音がある]

弧を描く腕の振り、ギャロップ、トロットの足跡、見えないシュプールを描く足の運び、着地した瞬間、到達した瞬間、掴んだ瞬間 etc 音に成る 小さな着地と着地の間は空気の音(ホワイトノイズ)が支配する。
安楽の浮遊、怒りの硬直、悲しみの跪き、恐怖の蹲り、逡巡の躓き、攻撃の突進 等。
東夷偽史先住民部落(アンダーグラウンド)の楽器演奏は、西洋のダンス バレエでも 武道でも 能でも 日本舞踊でもない。
特別の教育(刷り込み)の無い者による生命の喜怒哀楽の表現である。
楽しいだけでも、攻撃的なだけでも、哀しいだけでも、規律だけでも、無秩序だけでも、美しいだけでも駄目である。
調和、屹立、乱調、濁音、吃音、騒音、咆哮を含む。
その目的は、自己という動物の偽らざる姿の表現である。
これがどれだけ自覚的に表現されているか?
合言葉は、自己を窮めれば普遍に通ず、である。
窮めなければ、単なる独り善がりである。
楽しいだけ、攻撃的なだけ、絶望しているだけ、空虚なだけ、美しいだけ、等 部品の拡大解釈的表現は、趣味の反逆、趣味の絶望、趣味の孤独、趣味の恋愛、連帯、変態、倒錯 etc 所詮コスプレである。
自己の妥協の低さを、世のため人のため観客のためと置き換えてはならない。

木幡東介(マリア観音)



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