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エレクトタイムス17 1998.1.吉日

「マリア観音」…。それは偶然の産物でも無ければ時代の産物でも無い。強靭なる意志と強引なる力技(ちからわざ)によってのみ成し得る、徹底的なまでの美意識の結晶である。

※以下の文章は、日本人以外の方及び、日本人として日本に生まれ日本に育ちながら、我国の節操の無さ、恥知らずさ故に、自国に誇りを持てぬ正常かつ健康な精神をお持ちの方々に贈るものデス。

現在までに、貴方がたが「JAPANIESE ROCK」と称し接して来た音楽は、ただ単に「JAPANESE(日本人の演る)ROCK」、あるいは「JAPANESE(日本語を乗せた)ROCK」であったはずだ。そもそも日本にとってロック・ミュージックはあくまでも異文化、西洋音楽であり、英語の発音、アクセントによって生み出されるメロディやリズムは、元来、日本語と言う独自の言語を用いる日本人にはそぐわなかったはずだ。しかし、日本には“替え歌”なるものが在り、本来は別の詩がつけられた元から存在する別の曲の歌詩を一部、あるいはそっくり違うものに変え、全く別の歌にしてしまうと言う遊びの一種であるが、1950年代、ロカビリーを初めとして、主にアメリカより輸入されたポピュラー・ソング、いわゆるR&Rやオールディーズに、多少メロディを変えてでも日本語(時には原詩と全く意味の異なる)を器用に当てはめた“カバー・ポップス”なる独自のジャンルをでっちあげて以来、日本語をかぶせ、日本人向けに上手にデコレーション、パッケージされた日本語による洋楽カバーを我が国は次々と売り出していった。そしてそれは、1970年代初頭の、英語のままでの洋楽ロックのカバー、英語によるオリジナル曲を演奏するロック・グループが台頭する頃まで続くのだが、当初“カバー・ポップス”すなわちあくまでも借り物であったはずのそれらは、時代と共に音楽にも商業主義ゆえの大量生産が要求され、プロの作曲家による洋楽のパクリ、いわゆる盗作は日常茶飯事、我が国の音楽業界では暗黙の了解、否、当然の事の様に今現在においても堂々とまかり通っている。そして悲しむべきは、その後続々と産声をあげる、日本語によるオリジナル曲を演奏するロック・バンドの数々。1970年代中期、日本でもロックが商売に成り始めるのと前後して、日本のロック・シーンは、商業主義的エンターテイメントあるいは商業的な成功よりも自己表現を第一義とするアンダーグラウンドな世界へと大まかに分化して行くのだが、そのどちらの流れに於ても、楽曲のみならず詩から思想、ファッションに至るまで洋楽ロックの借りもの、否、影響、支配下から未だに抜け出せずにいる。西洋のロック・ミュージシャンへの敬愛と言う名を借りての無断借用、すなわち盗作も、引用程度からフル・コピー。本来、自己表現であるはずのロック・ミュージックの世界でさえ何の後ろめたさも無いかのごとく、今日も平然と行われているのである。よって日本のポピュラー・ミュージックの歴史のどこにも、真に日本人によって生み出され、日本語によって歌われた日本のロック、否、ロック=西洋音楽とするならば、日本の音楽と呼べるものは殆ど存在し得なかった。そしてそれは日本古来の伝統的な邦楽の様に、様式を崩さぬ事を良しとし、アグレッシヴ、プログレッシヴな途すら閉ざし、若者、否、日本人の大半からそっぽを向かれてしまう歴史が古いだけの保守的なものでは無意味であり、ただ単に邦楽器を使ってみたり、邦楽のエッセンスを洋楽ロックと軽薄にもミックスしただけのものではダメなのだ。あくまで日本独自でありながらも洋楽ロックに対抗し得るパワーとパッションを兼ね備えたエモーショナルなもので無ければならない。日本人の、日本語による、日本のロック、否、日本語のうた、日本人の音楽。「JAPANESE」…英語では一種類のこの単語が、日本では国としての「JAPANESE(日本の)」であり、人種としての「JAPANESE(日本人の)」であり、言語としての「JAPANESE(日本語の)」と訳せる様、日本語とは実に複雑かつ多彩、奥の深い言語であり、言わばこれまで輸出された日本のロックはすべて単なる日本風ロックであったに過ぎないのだ。しかし、今ここに明らかに存在する「マリア観音」によって紡ぎ出され、奏でられる音楽。日本人の日本語による日本のロック、すなわち日本式ロックこそは日本初であり日本唯一、しかるに世界初であり世界唯一と言えるのだ。(ただし、彼らもまだ未完成であり、未だ見ぬ理想の体現への進歩追求の過程、途上である事。話の通りを良くするため、彼らの音楽をあえてロックと定義したと言う事をつけ加えておく。)分りやすく解説するならば従来の日本風ロックは、何度も述べるが洋楽ロックの形式、様式に日本語を当てはめただけであるが、「マリア観音」の演奏する楽曲、すなわちリーダーであり(Vo)の「木幡東介」が作り出す楽曲は、彼の生み出す詩の、日本語と言う独自の言語の持つ意味、響き、発音等から必然的に、かつ自由に溢れ出るかの如く紡ぎ出される旋律と音色を、英語の発音、アクセントに支配された洋楽のロックのリズムで殺す事無く、“日本語のうた”を最大限生かすため、歌詩の意味、思想をありのまま、あるいは、更にどこまでも激しく、しかしあくまでも美しく際立たせ、彩るためゆえにその演奏が存在する。よって、打ち鳴らされかき鳴らされる西洋楽器であるドラムやギターやキーボードは一切鳴り止み、歌のみが時間と空間を支配する瞬間も時には在る。そして、“うた”こそは魂からほとばしる心の叫びであり、日本に生まれ日本に育った日本人であれば、それは日本語である事は当たり前であるのに、いつしか私達は、日本語の持つ響きや美しさ、意味深(ぶか)さや“しゃれっけ”を忘れ、敗戦国ゆえの劣等感か、異文化に未だ占領、かつ完全に洗脳し尽くされているのだ。私は、貴方が日本人であるならば、彼らのソウルフルな歌、そしてテクニックかつエモーショナルな演奏にきっと心を打たれるに違い無いと確信し、もしも貴方が日本人では無く、特に、西洋ロックを子守歌代わりに育った西洋人であるならば、西洋のサルマネにやっきになる滑稽な日本人では無く、初めて日本人としてのプライドとアイデンティティを兼ね備えたこの音楽を聴いて何と評するであろうか。私は、貴方が新鮮な驚きと刺激を求め、それを楽しめる真に進歩的な人間である事を期待する。そしてまた、日本人の多くには、権威主義と言う厄介な病いがはびっこており、識者、有名人の御墨付きや、海外での評価に対し、その実質を問わず、盲目的に信じ従いありがたがる傾向があり、すなわち自己個有の価値観、ものさしを持たぬ、被支配者体質を指すのだが、私達は決して、それを利用し、あやかろうと言った不純な思惑は毛頭持ち合わせていない。現在我が国では完全に黙殺されていると言って良い、言わばいかなる権威的な派閥、評価からは全く無縁の彼らを、商業的には全く(日本において、音楽活動を続けるにあたっての経済的負担の大きさもあるが)成り立っていないこの音楽を、貴方はいかに受け止めるであろうか。もしも貴方が本心からこれらの作品、この音楽を気に入り、なおかつ日本風ロックと日本式ロックの違いを認識するに至ったならば、日本風ロックとはいかにお粗末なまがいものであり、許しがたい盗人(ぬすっと)、ただし可愛く言えば西洋コンプレックス丸だしの奴隷音楽であるかが理解できるであろう。インチキ英語や(作詩能力が無いだけならまだしも、歌うべき言葉すなわち表現すべき自己を持ち得ぬが故に)造語を使い無国籍を装う日本人と無国籍を装う売国奴と進歩無きプログレ、既成のスタイルに従順な反逆無きパンク・ロック、現実逃避の裸の王様的インプロヴィゼーション及びアンダー・グラウンドのミュージシャン達も同様である。貴方に想像がつくだろうか、何処を見渡しても奴隷ばかりの植民地、我が国において、真の自由、真の自分を探し求めて生きようとする事、そして音楽等、芸術の分野において自己表現に存在意義を賭け、妥協無き理想の追求とビジネスを両立させようとする事がいかに困難かつ凄絶を極めるか…。


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