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エレクトタイムス11 1996.9.28

ズバリ聴こう。1996年9月4日(水)、この日貴方は何処で何をしていたのか。もしも貴方が刺激的かつ感動的な事に飢えていながら相も変わらず怠堕に退屈な日々を貪っていたとしたなら、それは貴方にとってなんとも悲しく虚しく、短い一生の貴重な一瞬を余りにも無駄にしすぎたと言わねばならない。なぜならこの日渋谷ラママにて行われた「PILL・勝井・木幡ユニット」のすでに日本のロック・シーン、更には音楽史上から抹殺されかけんとしているわずか40人強の観客のみが歴史の証人と成り得るそのライヴ・パフォーマンスこそは、まさにスリリングな、攻撃的かつ衝撃的な手抜き手加減なしの真剣勝負だけが持つ殺気と狂気と本気に満ちた、金を払うに値するプロの仕事と呼べるものであり、何かをやり遂げた後の充実感、激しく身体を動かした後の爽快感にも似た、表面を虚飾で誤魔化したり正体を分かりにくくする事によりおそまつな実体を何か特別な意味のあるもののように見せたり、意識的あるいは無意識のうちに死なない程度に自分からは決して限界を超えようとせぬ中途ハンパな臆病者が多い中、自由かつ過激な精神を肉体で表現するかのような徹底的かつ圧倒的なステージングは確かな手応えのあり過ぎる痛快極まる後味の良いものであったからだ。特に三人の気合の入り方、緊張感のぶつかり合う様はまさしく常人離れしており、そのテンションの高さを言葉で表現するならば、そこらへんの、何をやっても一番あるいは一流になれなかった人間達による自称インポもといインプロを指して言う「テンションが高い」とは天と地程の差があり、せいぜい「テンションがある」とするならばともかくどうしてもそれらを「テンションが高い」事にしたいのならば彼ら三人においては、テンションが鋭く固く殺傷能力に優れているとでも言うべきか。しょせん娯楽にすぎない音楽に、下手をすれば命をとられるかのごとく、殺し合いに近い凄絶な覚悟と過剰なる自我の放出をもって臨む彼らは、ともすれば異常だと思われるかも知れない。だが、私に言わせればそんな事は当たりまえであり、趣味や暇つぶしで音楽を演っている草野球ならぬ草音楽ならばそれは自分達だけで楽しむなり自己満足でも良かろうが、自己表現として(あるいは金を取るプロとして)音楽をやるのであればそれが当然、やり過ぎてもやり足りないはず(観ている方も)であり、観客を満足させられぬ事はプロ失格、ただしこれなら転職してしまえばすむが、自己の存在意義を賭け自己の存在価値を世の中にアピールしようと言うのであればそれが嗜好の違いで受け入れられぬならばまだしも、その意義や価値、汗や影すら認められぬ事は当人にとっては死を意味すると同じ事だからである。音楽においても、剣聖宮本武蔵の言葉通り「すべて武道を志す者は常に丸木橋を渡る心境であれ」であって欲しいものだ。とかく真剣である、真面目である事等はカッコ悪いとバカにされがちだが、他人の作った決め事を疑いもせず盲目的に従う事や、ユーモアや遊び心のないロボットのごとき真面目さが愚かなのであり、要は自己に対して真面目であるか、ただし自己のみを見つめるのではなく、世間とのかかわりにおいて自分とは一体何であり、何のために生まれて来たのか、否、何を成すためと言うよりは自分が何をしたいのか、どうありたいのかという事が肝心であり、遊びにせよ適当に中途ハンパにやったのでは面白くないように、やはり真剣に遊ぶ、更に言えば、何事も徹底的にやらなければ真の面白さなど分からないし、何かをやり遂げた後の感動すらも得られないだろう。自己表現にこだわらずともしょせんそこがプロとアマの違いなのであり、感動させる事が出来ずして何がプロであるか感動的でない人間に他人を感動させる事が出来ようか。しかし私は、何故誰もが真剣に、本気で、徹底的に、やり過ぎるくらいにやらないのかその理由も知っている。何故なら彼らはとても臆病者であるか、自分達がまがい者である事をよく知っているからである。うわべを誤魔化す事で精一杯ゆえ、やり過ぎてボロが出るのを、正体を見抜かれるのをただただ怖れているだけなのである。ところがこの三人と来たら、正体を隠すどころか、己を出し過ぎ、やり過ぎの極みである。もしも時間等の制約がなければ誰かが倒れるまで、否、最後の一人が力尽きて倒れるまで演り続けるだろう(一度見てみたいものだが)。その三人とはまずはPILL(Ds)。彼のドラム、ひいては音楽による自己表現に賭ける執念と、特にパワーは人間離れしており、まさしく“自己表現の鬼”の異名に恥じる事なく例えて言うなら、一人の空手家が素手のみでグランドピアノ一台を破壊するそれに近く、何のために、また、何故そこまでやるかと他人様は思うかも知れない。だが彼はその問いに対し「何でお前はしないんだ」、きっとそう答えるであろう。そして勝井祐二(Vio)。“天才と狂人は紙一重”と言うが、彼は見事にそれを体現している。気が違ったかの様にひたすら弾きまくる彼の姿はどう見ても尋常ではないが、そもそも私達は金を払ってまで普通の人を見に来てる訳ではないのだから。よって彼の天才的かつ狂人的なプレイが、場の空気を日常から非日常へ、演奏者そして観客の意識を現実からライヴという特別な空間へ、元より規格外、限界知らずの三人がどこまでも激しくもっとムチャクチャに果てしなくクレイジーに演りまくるのを加速せしめているかのようだ。そして最後に木幡東介(Vo、G)。このユニットでは基本的に彼の歌をモチーフに演奏が進められて行く。ただし曲目、曲順、更にはエンディングすら決め事が無いと言うから、彼が何を歌うかによってテーマが、どこで歌うかによってその都度誰がイニシアチヴを取るかが決まってしまうため、緊張感を持続させる事において彼の功績は大きい。“沈む夕陽を再び昇らせん”とする「マリア観音」での彼が、その思想と理論を自らの表現行為によって実証しようとしているとするなら、ここでの彼は、さらに自由で過激な精神を肉体によって表現しようとしているかのようだ。例えるならば、己の肉体を男性器に見たて、全神経を体毛の先端にまでみなぎらせ、細胞のひとつひとつに情念をこめ、肉体の全能力をふりしぼり余分なものをすべてそぎ落とし、精神力で男性器を刃物に変へんと、己の肉体をひとつの凶器、すなわち“人間凶器”にせんと身をひきつらせ咆哮しているかのようだ。「鬼」「狂人」「人間凶器」。いやはや何ともトゥーマッチなこの三人が集って音を出したらどういう事になるか、それはきっと貴方の想像通り、否、想像をはるかに越えた凄まじいものであると私は断言できる。彼らの音楽がジャンル的に何に当てはまるか、専門的に見てどうなのか、音楽知識の少ない私には説明出来ないし、しようとも思わない。ジャンル(音楽の形態)で、聴く音楽を限定してしまう様な人間にはおそらく無縁、しょせん理解出来ずおじけづいて逃げ出すのがオチだろう。だが、何か刺激的かつエキサイティング、感動的かつポジティブな(音楽に限らず)ものを求める貴方ならば必ずやお気に召される事だろう。彼らこそは、現在最もパワフルで、確かな言葉(意志)を備えた自由かつラディカルな音楽による自己表現集団である。


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