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■2014.12.08
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エレクトタイムス10 1996.3.5

さて、この日本において存在価値、活動意義があると認め得る数少ないアーティストのひとつ、「マリア観音」であるが、それでは現実的に彼らを取り巻く状況は如何なるものだろう。残念ながら未だ彼らは正しく認知されているとは言い難い。むしろ無関心の暴力とやらによって黙殺されているとさえ言っていい。一体何故…。ところで「マリア観音」の魅力とは何であるかと尋ねられたなら、私はこう答えるであろう。「理屈抜きに感動的であり、理屈すなわち理論的に見ても意義そして価値のある唯一無二の存在である」と。そう、他のアーティストの代わりは居ても「マリア観音」の代わりなどどこを探しても居ないハズだ。なんせそもそも日本の音楽(に限らず)アーティストの大半は代わりが利くどころか本人自体すでに何らか(洋楽であったり、更には洋楽のコピーである邦楽)の代用品なのだから話にならない。そして更に重要なのは、オリジナルだからとて面白くなければ、娯楽として成り立たなければ何の意味も無いという所だ。本物ぶって、さもこれが正しいと言わんばかりの権威主義の弱気な化け物どもには、本当に人を感動させるちからなんぞこれっぽっちも無いのだ。それならばミーハー受け狙いのアイドル・バンドの方がサービス業に徹している分だけ潔いと言うものだ。ただしそれはあくまでもビジネスとしての音楽であり、自己表現とは相容れないものであるが、自己満足の生涯アングラよりは数段マトモであろう。だがしかし私の求めているものはそんな「1+1=2」的な計算されたもの、ありふれたもの、ありきたりのもの、代わりの利くものでは無い。まさに「これしか無い」と呼べるものを求めていたのだ。本当に優れたもの、素晴らしいものは誰が見ても、知識や能力が無くても(無いよりはあった方が良いのだろうが、それはあくまでも自分自身の価値基準が備わっていての話だ)、感動を求めてやまない人間ならば即座に理解できる筈である。人を動かすもの、変える力、それは本能に訴えかける感動に他ならない。されど「マリア観音」。詩、曲に見られる唯一無二性、肉体と精神を限界まで酷使する命がけのライヴを行ってなお赤字続きという厳しい(貧しい)日本の音楽シーン。どこまでも激しくあくまでも美しい感動的な楽曲を演奏しきれていない彼らの未熟さゆえか、否、それを差し引いてなお余りにもな日本の音楽リスナーの鈍さ。一部を除き無関心な音楽誌やメディアの責任か、否、しょせん企業は営利目的であり(それは別に悪くない)むしろ悪いのは情報を鵜呑みにする権威主義、押しきせの自由、借りものの文化に満足しきった奴隷根性である。それでは宣伝が不足しているのか、否、現状の音楽シーンに不満を持ち自ら感動を求める者、探している者ならばすでに出会って然るべきである。誰もが本当にそれで満足しているのか。心の底から感動できる事があるのならばまだしも、本当に音楽が好きなのならば音楽を聴いて心の底から感動してみたいと思わないのか。そしてまた数年後、かつて「マリア観音」という珍しいバンドが存在したと屍体愛好者、歴史研究家の如く彼らを再評価、(手前味噌ながら)伝説にでも祭り上げようとでも言うのか。冗談じゃ無い。彼らは今、ここにこうして生きて存在して不毛な日本の音楽シーンを切り開くべく崖っぷちで活動、否、格闘して居るのだ。伝統芸能(ローリング・ストーンズ)の継承、サイケやプログレの復習会、パンクのファッションショーなどもうたくさんだ。そんな猿真似屋どもなど居ても居なくても、この世に存在する意義などこれっぽちもありゃしない。「マリア観音」がやろうとして居る事は、他人の生きてきた道をなぞらう復習などでは無い。日本に生まれたがゆえに特殊(片輪という意味では無く、余りにも正常かつ自己に忠実過ぎるという意味)な存在であらざるを得なかった事に対する復讐である。真の個性とはテクニックやマニュアルを否定する事でも無ければ国籍や言語を捨てる事によって一見自由に振る舞う事でも、ましてや他人の表現をそっくりそのまま真似する(もっとハッキリ言えば盗む)事などではさらさら無い。ありとあらゆる知識や技術を身につけた上で、真の自分を如何に偽らずありのまま相手に伝えられるか、もしくはこう在りたいと願う自己の理想像へ一歩でも自分を近づけるべく知識を取り入れ、技術を磨き、表現の種類、形態を増やし、時と場合に応じ、如何に自分らしさ、自分なりの色(音)を出せるかという能力であり、更に言うなれば個性とは他人より何処が欠けているかではなく他人より何処が優れているかという点において判断、評価されるべきであると私は考える。

♪一つ目の国では何時だって 二つ目は異常さ 片足びっこ引いたところで 二つ目は異常さ… 片目で見る夢は楽しかろうが 何時でも片手落ちだろう 両目が開けば 見えれば まだ見ぬ 地獄がそこに在る… 舌先三寸この先一寸 矛先(ほこさき)向けるは何処に在る 地獄と極楽を左右に振り分けるための二つ目小僧… 木幡東介作詩「二つ目小僧」より。

以上、あくまでも私個人の意見である。感動無き音楽は意義無き人生に等しく無であり、私にとってそれは「死」を意味する。


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